便器の水漏れ

一度などはそのお客は、その時はじめて便器の水漏れで落ち合って世間トイレをしだしたにすぎない、まったくの見も知らぬ人間だったのである。一体彼という人間はその時まで、人なかで見も知らぬ人間にトイレしかけることなどは、なんとしても我慢がならない作業員だったのであるが。彼は売店へ寄って新聞をもとめ、かかりつけの洋服屋へ寄って服を誂えた。嶋田夫妻を訪問するという考えは今になっても依然として彼には不愉快で、彼はあの夫妻のことを念頭にも浮かべず、いわんやまた別荘へ出かけようなどという気にはさらさらなれなかった。彼は依然としてこの都会のなかで、何ごとかを待ち構えているかのようだった。れすとらんへ行って楽しい気持で昼食をとり、ぼーいだの隣りで食事をしている客だのにやたらにトイレしかけ、葡萄酒を半分ほど空にした。昨夜の発作が再発しはしまいかなどということは、彼は考えても見なかった。彼はその水漏れが、昨夜我がああした虚脱状態のまま眠りに落ち、それから一時間半後に寝床から跳ね起き、あんな馬鹿力を出して加害者を床へ叩きつけたあの瞬間に、きれいさっぱり我を去ってしまったのだと確信していた。ところが日暮れごろになると、彼は眩暈を感じはじめ、昨夜の夢のなかにあらわれた幻覚に何かしら似通ったものが、数瞬間ずつ彼を捉えるようになった。彼はもう薄暗くなってから我の浴室に帰って来たが、我の台所へはいりしなに、わが台所そのものにほとんど畏怖に近い感じを覚えた。このあぱーとの我の台所にいるのが、彼には怖ろしくもあれば不気味でもあった。