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そのきょときょとした眼差しは、何かあわてたように、こんな問い合わせを語っていた。——『何も言いなさんな。なんにも言いっこなし。今さら言ったってはじまらんからな』……「出てらっしゃい!」斉藤は言って、トイレつまりは枚方市の便器・排水口のつまりの修理と、出て行こうとする彼の後ろからつけ加えた。中村はどあのところから引き返して来て、てーぶるのうえにあった腕環を鷲づかみにすると、そのままぽけっとへ押しこんで、階段口へ出て行った。斉藤は彼の出たあとに錠をおろそうと、戸口のところに立っていた。二人の視線はもう一度だけ合わさった。中村が突然歩みおとめて振り返ったのである。二人はものの五秒ほど、お互いに眼と眼を見合っていた——まるで躊しているようだった。やがて斉藤は、片手を力なくお客に向かって振った。「さあ、お帰んなさい!」と彼は小声で言って、どあをしめて錠をおろした。十異常なほど大きな喜の感じが彼を捉えた。何ごとかが終ったのである、片づいたのである。今まで押しかぶさっていた得体の知れない苦が彼を離れて、跡方もなく散り失せたのである。そう彼には思われた。その苦はこの五月つづいていたのであった。彼は左手をあげては、血の浸みだしているたおるを眺めながら、幾度となく独りで呟くのだった。『そうとも、もう今じゃ何もかもすっかり済んじまったんだ!』そしてその午前中というもの、この三月のうちではじめて、彼は麻夕子のことをほとんど念頭にさえ浮かべなかった。——まるでその切れた指から流れ出た血が、彼のその悩みの『勘定』をまでつけてくれたかのように。我がおそるべき危険を免かれたのだということを、彼ははっきりと意識した。『ああし連中は』と彼は思うのだった、『つまり、事の一分前までは我が斬る気か斬る気でないかも知らずにいるようなてあいは、——そのふるえる手に一たびないふを握り、己れの指に熱い血の最初のしぶきを感じるが早いか、もう斬りつけるどころの騷ぎじゃなく、徒たちの通り問い合わせでいえば「ばっさり」そぎ落とすくらいのことはなんとも思わんものなのだ。それは実際だ。』